ハリネズミ2匹


休みを利用して、父親の胃癌の定期検診に行ってきた。
その帰りの電車の中で書いている。



そもそもは3年前の3月に弟が3月末まで働いていた諏訪の病院で人間ドックを受けたのがきっかけで胃癌が見つかり、4月1日に胃の三分の二を摘出する手術を受けたのだった。



その後父は半年、1年、2年と検診に行くことになるのだが、何となく付き添うのは母親でなく自分の仕事な気がして、休みに合わせて諏訪に訪れている。
また同時に塩尻の父の実家の相続手続きも片付いていないので、父親が二十年以上抱えていた相続の悩みも半分受け持つことになっていた。
父親が手術をしたのをきっかけに一人暮らしをしていた久我山から王子に戻り、それまでに顕在化していた夫婦仲もガス抜きになればとも思い、色んなことを引き受けようと自分なりに立ち回っていた。



俺自身はといえば、仕事はすでに10年目に突入してしまったのだが、未だにルーチンにならず、毎日毎日喜怒哀楽を繰り返し、今日は失敗した、今日はうまくいった、明日はしんどそうだ、とその日その日を感情の起伏と緊張感を身にまとい、自分なりに戦っていると思っていた。
よく日曜日の夕方から明日から始まる仕事を考えて憂鬱になる、なんていうことを言われるが、そんなのは皆無。
時間切れのまま休みに突入し、休みの間だって仕事のことを考えるか抜け殻になっているかどちらかで、休み明けは瞳孔が開いたような状態で突入する。
会社を良くしようと常に悩んでいた。
家族のことより会社のことを考えていた。



そういう日々だった。
だから、時間的にも空間的にも父親と二人きりになるタイミングは貴重だった。





水曜日の朝、7時のスーパーあずさに乗り込み父と二人で諏訪に行った。
弟が研修医として働いていた諏訪赤十字病院は、施設も大きく、新しくて綺麗で、そして患者さんの非常に多い病院だった。
この1年でも様変わりしていて、予約受付も採血で順番に呼ばれるのも番号と電光掲示板。
携帯ショップや、銀行窓口や、法務局や、免停の家庭裁判所なんかと同じ。
こうやって雇用の創出と機械での効率化は相反して進んで行くのだなと思いながら父の荷物やコートを持ち、横で付き添っていた。
そして上述の産業と同じように、毎回同意書にサイン。
親族欄もあり、俺もサインをする。
父は相変わらず臆病なので、病院に入ってからは逆に攻撃的になる。
そういえば手術の時も開始が遅れていて、執刀医の説明がないとか散々文句を言っていて、見るに耐えなかった。




一日目は昼過ぎで終わり。
翌日は大腸の内視鏡検査。




近くの宿に移り、チェックイン。
父と俺は別々に部屋をとっていた。
そ各々夕飯まで別の時間を過ごす。




夕飯を食べて、食べながら相続の話をする。
翌日松本で父の弟にあたる叔父さんに会うことにしていた。
父も行こうとしていたのだが、この間で二つのことをこなすのは難しいだろうし、兄弟で話すとすぐ口論になるので、自分一人で行くことにしていた。




早めに就寝し、翌日は8時半から検査。
俺はその間、片倉館へ。
千人風呂に事情を話して荷物を置かせてもらい、諏訪湖を一周した。
約16kmを、写真を取りながらゆっくりゆっくり一周。
気持ちよかった。
2月の東京マラソン以降ロクに走れていなかったので、デトックスした気分。




戻って片倉館で風呂に入り、母校の大学校舎のような浴場を堪能し、病院へ。
ちょうど午後の内視鏡検査が始まった。



どうやら担当医が良くも悪くも非常に細かかったらしく、痛みがすごかったと、ここでも父は怒っていた。




二日かけて検査は終わり、上諏訪の駅でコーヒーを飲み、父は東京へ、俺はさらに北上して松本駅に。




松本駅に着くと、何だか駅が綺麗すぎて初めての感覚だった。
弟の卒業式以来か。
叔父に会うのは5年ぶり、大人になってサシで会うのは初めてだった。
メールではいまいちニュアンスが伝わらない、とはまさにこのことで、会うことでそれはそれは有意義な時間を過ごすこととなった。




松本駅に近い場所にある蔵造りの建物を改築してできた料亭に入り、天ぷらを食べた。
聞けばこの建物は道路の拡幅に伴い曳家で移動をしたものらしい。
とにかく相続の手続きを取らねばという気持ちだけは共通認識だったのだが、父の代理で来ている俺と実際の当事者との間の溝は埋まらない。
俺に完全に欠落しているのは、その場にいないことでの止むを得ない感情だった。
当事者意識というか、感情移入というか、そういう部分での「共感」ができないことで、どうも昔話を聞いているような気分だった。
それでもわかったのは、祖父がどれほど子ども達に期待をし、どれほど感情にまっすぐだったかだ。
祖父は子どもの名前のみならず、孫の名前も全部一人で決めた。
そして長男、つまり俺の父親が信州で開業してくれるものと信じ、そのために土地を空けておいたのだった。
それが他の兄弟にとってどれほどインパクトがあったことか。
そうやって形成された、蓄積した感情や認識のずれが、後に相続を30年近く解決できない溝として残すことになった。




天ぷらを食べながら叔父は子供の頃の話から最近の話まで、時系列関係なく昔の話をしていた。
それが全て今の相続に繋がっているから怖い。




祖父は俺に「琵琶湖周航の歌」を唄った人物の名前をそのままつけた。
たまたま同じ名前だったのだと思っていたのだが、そのまま名前を用いたのだということを初めて知った。
たまたま昼間諏訪湖を一周した際に岡谷側の湖畔に彼の銅像が立っていて、そこで写真を撮っただけに相当驚いた。
大学の先輩でもあった。




叔父に別れを告げ、あずさに乗り込み新宿へ。
気持ちが昂ぶって一睡もできなかった。





父の人生や亡くなった親族の想いを受け止めて生きる必要があるかはわからないが、少なくとも死に直面して自分の子供を頼る父の気持ちは全力でバックアップしたいと思い、こうやって親族調整を購って出ている。
それは昔から苦手で、本当は尊敬していて、何かにつけて力の差を感じる当人への、彼ができないことを自分ができるという本当につまらない自尊心からだけかもしれない。
頼られないと自分の立ち位置を確認できないというのは、何だか複雑な気持ちだが、こうやって30年以上生きてしまったから仕方が無い。




帰りの電車の中で食べ続ける人、PCと向き合い続ける人、すごい姿勢で寝続ける人なんかを眺めながら、また明日からの仕事を考えて、OSを仕事モードに切り替え家路についた。


















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