ここんとこのまとめ

塩尻に行った。


東京からはこの位置。

北東には中学高校の頃毎年夏合宿で行っていた上田市
南東には弟の住んでいる諏訪市

西には空港。




目の前は西街道。
洗馬のあたりで中山道から分岐。
19号に吸収される。
ちなみに塩尻市は20号の終点でもある。
甲州街道で1本です。

このあたりは、安政時代に大火事があったらしく、大部分はその後の建築物だそう。
ちなみに1858年だそうだ。

祖母の家も建立は明治31年
土蔵に入ったら、棟木に「明治参拾壱年建立」ってでっかく書いてあった。
1898年だから、築111年。

なんだかなあ。

中山道洗馬宿で分かれて、北にむかい郷原宿・松本宿を経て善光寺へいたる道筋を、北国脇往還または善光寺道といった。
郷原宿は慶長19年(1614)、松本城小笠原秀政が、中山道洗場宿と北国街道篠ノ井追分を連結するために、北国脇往還を整備して設定した宿の一つである。
設定にあたっては中山道洗場宿から松本へ通ずる道を新設し、奈良井川東岸にあった上野の人々を道路沿いに移して宿場を形成した。
街道は直線的で、桝形や鍵の手などの曲折はない。
慶長19年(1614)の宿創設当時には、総家数23軒で問屋一軒、伝馬役八軒であったが、35年後の慶安4年(1651)には38軒。
これが安政2年(1855)には総家数72軒となっている。
それでも中山道三宿天保14年(1843)の家数は塩尻宿166軒、洗場宿163軒、本山宿117軒と比べるとはるかに少ない。
これは中山道五街道の一つであって公儀の通行が多く、主要街道としての宿場の構成を備えていたからであり、郷原宿は地方の脇街道の宿場であったためである。
郷原宿は一軒の間口が六間以上であり、奥行きも三十〜四十間ほどで、その奥に大きな畑を持っていた。これは他の多くの宿場と比べ間口が広かったのが特徴である。
郷原宿には正式の本陣や脇本陣はなかったが、山城屋(赤羽家)を土地の人は本陣と呼んでいる。
赤羽家は、郷原宿の西側にある大きな本棟造りの町家で、江戸時代には松本領塩尻組の大庄屋も勤めた旅篭屋で善光寺詣での公卿も泊まったといわれる。
しかし善光寺道は公用旅行者や大名の通行が少なかったので、本陣をはじめ旅篭や茶店も旅行者の休泊だけではやっていけないので、多くの家が農業を兼ねていた。
しかし山間で耕地が少ないので出稼ぎ・藁細工・駄賃稼ぎなどによって現金収入を得ていた様だ。
郷原宿は、文政4年(1721)と安政5年(1858)と二度の大火で殆ど全焼し、今ある古い家も安政5年の大火のあとの再建である。
板葺屋根の豪華な本棟造りの家が点在し、出格子のある切り妻造り、平入りの家が混じって、宿場の面影を今日に伝えている。
これだけまとまって本棟造りの宿場が残っているのは他に例を見ないように思う。
また、家の前には広い前庭があり、その前面に庭木が植えられ、それが緑の並木をつくって、他の宿場にはない独特の景観を醸し出している。 

郷原宿(ごうばらじゅく)は北国西街道(善光寺街道善光寺西街道)の宿場で、信濃国筑摩郡郷原町村と堅石町村にまたがっていた。
(現長野県塩尻市)。

幕末の安政5年の大火の後に再建された町並みは、かつて柳宗悦が「宿場全体が誠に見事な一個の作品だといてよい」と絶賛した。
古い建物は、緩い勾配の切妻屋根で、妻側を正面とする本棟造。
「雀おどり」と呼ばれる棟飾りが威風堂々とした外観を与えている。
また、家屋の前面には庭木が植えられていて、他の宿場町と異なる独特の景観を作っている。
現代の建物にも、妻入りの構造は引き継がれている。

堅石町村には東山道の覚志(かがし)駅があり、後に転訛し堅石(かたいし)になったという。


これは残しておいたほうがいいんじゃないかなあ。




父の母校である松本深志高校にも行った。
伯母さんがここで未だに働いているので、教頭先生に挨拶をして校舎を見学。
指定文化財だそうだ。







教育レベルの高そうな学校だった。