100年の孤独

父の実家の耐震診断の為に、朝から塩尻に行った(さっき帰ってきた)。
祖父母のさらに上の代の建立物で、元々の和室の部分は明治31年築(らしい)。
同じ時期に敷地内には蔵も建てていて、その通し柱に「明治参拾壱年建立」と書いてあったので、そうなのだろう。
その後今から約40年前に増改築がなされ、今に至っているのだが。
間口が3間程度に対して、奥行きが15間ぐらいあるもんだから、非常にバランスが悪い。
しかも今年まで住んでいた伯母も東京に移ってしまった為、今後の維持管理をどうするかって話から、
「そもそももつのか?」という話になり、客観的に診断してもらってから考えようという結論に至った。


それにしても色んな人間の思惑のつまった住まいだ。
いわゆる建築的に言ってみりゃ耐震診断なんてやったところで数値が低いのなんて目に見えているし、
アウトなのはわかりきっている。
それでも市の派遣した診断士と立ち会って耐震診断をやり、市の助成を受けるかどうかを考える理由は、
結局残された人が残された家とちゃんと対峙する必要があるからだろう。
そのきっかけにすぎない。


40年前に増改築された際の当時の図面、当時の書類、当時の写真なんかを見ていると伯母も父も色々と回想するようで、
特に図面には施工されていない暖炉の提案なんかがあったりして、それを言ったら
「そういやそんな話もあったね、結局設計側は山荘風にしたかったようで」
みたいに次々とエピソードが出てくる。
いよいよ父が困るのは、結局何で増改築をしたのかというそもそも論に立ち返ったとき。
「祖父は、父を、父の家族を呼びたかったんじゃないか?」


図面ひとつで色々出てくる。
当時の父の状況、叔父の状況、伯母の状況、祖父母の思惑、設計も親族だったから、何だかみんなで親族環境をかき混ぜて終わった出来事だったんだろうなと。
江戸時代から続く宿場町で、家を守り、生活を守り、戦後家族が離れたときに呼び戻そうと画策した祖父母も気の毒だし、
そんな教育を受けて色々と責任を押し付けられた親兄弟も気の毒だし、
そのままになってしまった家も土蔵も、裏の空家もみんな気の毒だ。


結局この100年は何だったんだって話をしながら家を眺めていた。
診断士は「珍しいから残したほうがいいのでは」とも提案してくれたので、いよいよ真剣に親族で話し合う時期に来たようだ。





こっちは過去の記事。
2年前だけど。
http://d.hatena.ne.jp/konjoren-taro/20091110?_ts=1323789795