命の番人たち

親族が亡くなり、通夜、告別式と2日にまたがって参列した。
5月に亡くなった住職の奥さんで、後を追うように亡くなった。
それも8/15に。


お盆の忙しい時期は何とか耐えて、15日の夕方息を引き取ったそうだ。
何となくの運命も感じるし、たった4ヶ月で立て続けに両親を失った叔父や従兄弟の気持ちも相当なもんだろうと考え込んでしまった。


通夜にしろ告別式にしろ、お寺の関係者の葬儀というものは本当に規模が大きく、檀家さんも集まり、俺たちは遺族席でひたすら読経をする。
この旅立ちの儀式を、どこか客観的にも見つつ、人の想像力の大きさ、宗教の持つ力をまざまざと感じてしまった。
彼らはまさに生と氏の番人。


音程の異なる鐘の音色と、じわじわ鳴り響く蝉の声と、線香の匂いの混じる生ぬるい空気と、教本を読まなくても絶え間なく続く読経とで、祭壇の向こうには本当に黄泉の世界の入り口があるんじゃないかと、そんなことまで想像してしまった。
人間の想像力が全ての理性を凌駕する、最も浮世離れしたイベントなのだ。


特別に信心深いわけではないのだが、なんだか涙ぐんでしまった。


ミエナイチカラ



二日間かけて通夜と告別式を終え、俺は自分の祖父や思いっきり遠い親戚と顔を合わせ、連絡先を交換し、体調がまだ回復せずに欠席した父親の代理の任務も務め、へとへとになりながら家路に着いた。
こういう場所でしか顔を合わせないのもどうかと思うが脈々と続く家系の歴史を再確認する機会は、やはり必要なのだ。


一言、疲れた。