Mt.Fuji again

大学生の頃から登り始めた富士山。
今回の大半のメンバーとは逆に、俺は初めて登った富士山のご来光が素晴らしすぎて、その後の年中行事となる。
10回の中には笑いあり涙あり、しんどい中での感情の共有が素晴らしい記憶となって心に刻まれる。


毎年毎年違うメンバーと登る富士山は、富士山の表情と同じようにメンバーの表情も異なるので、その年その年で色々あるのだ。
だから楽しくもあり、だから神経をいつも以上に磨り減らすこともあり。


今年もそうだった。
弱音を吐き始めるメンバーが出てくると、その度にどう接していいかを悩み考えながら登るし、人数が多ければ集団行動できないメンバーも、メンバー内でのテンポの差も出てくる。
そこが最も難しい。
こういう時、つまりいきなりとんでもない環境に放り出された時、人間は育ったバックグラウンドや日常生活している環境や、本音が出てくるものだ。
正直きつい言葉も浴びせたし、リクエストを無視したりもした。
2チームが合流してからも、苛立ちを周囲に気付かれる場面も何度かあった。


弱音を吐く人は、自分の力の限界を過小評価しているケースが多い。
そこでいつも自問自答と、相手に対して心の中で叫ぶ。
「自分が望んでエントリーしたんじゃないのか?」
頑張ってほしいからこそ、その頑張り方を教えないといけない。
後悔はしてほしくない。
自分の選択で後悔し、富士山を嫌いになってほしくない。
「無理やり連れてかれた」という言い訳を持たせてでも、ちゃんと最後まで登りきってほしかった。
事実、去年同じように泣いてでも登った彼女は、今年はそれはそれはたくましくなっていた。
もう、顔の表情から、立ち振る舞いから、ちゃんと自分の体を向き合って「力を出す」ことを体得していた。
そういう場面に出くわすと本当に嬉しい。
もちろん、物理的に無理な場合もある。
そこには管理監督責任が伴う。
ただ、弱音を吐いている人間に物理的に無理な状況に立っている人間は少ないのだ。
むしろしんどくても根性むき出しにしている人間の方が危ない。
そこを見ながら、「自分で選ばせる」ことをさせないのが、俺の富士登山を引率する側としての意識だった。


自分の目が届きにくくなってきたな、と感じたからこそ、念のため今回はさすがに山岳保険の手配も提案した。
結果としては29人全員が登頂できたが、毎年毎年ひやひやしている。
本心として、来年登るかわからない。



結果非常に疲れたので、珍しく山頂でご来光を待ってる間寝込んでしまった。
ここ数年、「五合目出発から五合目到着まで一度も座らない」を一つのバロメータにしていたのだが。
正直心のどこかで今回の富士登山には身が入っていなかったのかもしれない。
申し訳ないが。


しかし、毎年毎年しんどくて、「何故俺は毎年懲りずに登るのだろう」と考えて富士登山をする行為そのものが、俺にとっては大事なのだ。